お茶の雑学!いつ日本に入ってきた?静岡県がなぜお茶の名産地なのか?

日本人の心と言えば、ズッとすすってホッと心落ち着く『お茶』であると思っている人は少なくないのではないでしょうか。

3時のおやつ時に和菓子と一緒に飲んだり、食後に飲むという人も多いかとは思います。

そんな日本人に愛されるお茶ですが、知識的にいつ日本に入ってきたとか、どうして静岡県がお茶の名産地になったのか、などといった話はあまり知られていません。

まあ、美味しければいいといえばいいのですが今回は、そんなお茶についての雑学をあげていこうと思います。

本記事が参考になれば幸いです。

 

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お茶はいつくらいに日本に入ってきたの?

お茶請け

いまでは、さまざまな味やさまざまな種類のお茶が販売され、本場の苦いお茶とは違った趣向や目的で愉しむことができますよね。

たとえば、

このようなダイエット用のお茶や、

 

このような女性の体調や美容を考慮したようなお茶などさまざまなものが販売されています。

その原点となるものは、日本古来の茶道といった文化から日本で生まれたものかと思われがちですが、実は違います。

日本にお茶が輸入されてきたのは奈良時代のことでした。

元々は遣唐僧などが中国から持ち帰ったもので、日本にもたらされた最初のお茶は乾燥させた茶の葉を臼で粉にして練り固めた団子状のもので「団茶」と呼ばれるものだったのです。

まあ、あまり美味しそうには思えませんね。

それもそのはず、中国南西の山岳地帯で収穫されるお茶は薬用としてもちいられていたものだったからです。

なるほど、そう考えるとお茶の成分って消毒などの効果があるといわれていますものね。

ただ、遣唐僧達がもたらした団茶は薬用としてではなく、修行僧たちが眠気覚ましに使う清涼剤としての役割が強かったようです。

おそらく、お茶に含まれるカフェインが覚醒効果をもたらして眠気や疲労、倦怠感などを緩和していたのでしょう。

科学的には証明されていなかったとしても、実際に食べたり飲んだりして効果が実証されていたのでしょうね。

 

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食品

 

とはいえ、それはあくまで中国での話です。

日本では薬用としての効果を重視したのか、時代が少し経つ平安朝の時代。桓武天皇は茶園を「典薬寮」という、いわゆる薬品管理部署に管理を任せていました。

つまり、最初は『薬』という扱いだったわけですね。

そしてさらに時代が経った頃、鎌倉時代の頭にようやく『抹茶』が日本に入ってきました。

その人の名は『栄西上人(えいさいしょうにん』という人物で、禅の研究で中国に渡りお茶のもとで江南種の茶の実を持ち帰り、方々に植えるようになったのです。

このことから、飲茶(やむちゃ)や茶道が盛んになり、発展を始めていき、今に至るというわけですね。

ちなみに、栄西上人は『喫茶養生記(きっさようじょうき)』という書物を出しており、

  • 脚気
  • 食欲不振
  • 腎臓病
  • 中風
  • 瘡病
  • 便秘
  • 眠気
  • 渇き

といった諸病について効果があるということを書いています。

いまほど医療技術が発達していないのにも関わらず、お茶の効果をよくあらわしており、漢方の一種として扱っていたのでしょう。

 

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どうして静岡県がお茶の名産地になったの?

お茶を摘む

さて、そんな中国から最初はもたらされたお茶ですが、どうして静岡県がお茶の名産地となったのでしょうか?

ふと「なんで静岡?」と疑問に思ったことはありませんか?

それは江戸時代のことになります。

「越すに越されぬ大井川」と歌われて交通の要所となった大井川ですが、実は静岡県がお茶の名産地になったのはこの歌のゆえんが元となったのです。

当時の徳川幕府は江戸を防衛する為に大きな川には橋をかけなかったとされています。

記録を見ると、大井川は八百間(約1454m)もあり、普通の方法では渡ることはできません。だって橋がないのですから。

なので、川を渡るには川を越えるための川会所が設置されていたのです。

そこには川越人足と雑役夫合わせて800人が従事していたとされています。ちなみに、川越人足とは人を肩または輦台(れんだい)などに乗せて川を渡すことを業とする人のことを指しています。

他人の肩車で川を渡るなんてどんな羞恥プレイだよ、と現代人は思うかもしれませんが当時はコレが橋のない川を渡る方法としては普通だったのです。

が、当然ながら川上に雨が降ると水深は高くなります。ですので、川越人足のわきの下まで水が届くようになってしまうと、危険防止の為に休止となり川の水が引くまではどこかの宿で待たなければなりません。

現代ではほとんどありえませんが、さしずめ離島に旅行に行っている時に台風がきたといったところが感覚的に近いかもしれません。

当然、旅は順調にはこべなくなるし、川越人足もかなりタチの悪い人もいたそうで、旅人にとってはまさに旅の難所だったに違いないでしょう。

さて、当然思うのは、

「なんで舟で渡さないの?」

という素朴な疑問ですが、実際に舟で渡すようになったのは明治4年のことです。

江戸防衛の為に架橋も舟渡しも禁じられていたので仕方ありません。少なくても江戸時代の間はこの方法でしか川を渡れませんでした。

さて、明治に入って橋をかけるのも許されるようになり、渡し舟が使われるようになって困るのは誰でしょうか?そう、川越人足の人達です。

いきなり今までやっていた仕事を奪われたと言っても過言ではないでしょう。

が、それはそれ。明治となった近代の時代の流れに逆らうことはできません。

そして、全員がお茶の栽培に転業しました。

しかしまた、凄い突然の転身ですよね。もちろん、色々とそれぞれにあったのでしょうが結果的にいえばそうなったわけです。

そうして、川越制度の転換期に別の産業、つまりお茶の栽培に人が移ったことで発展し、静岡県がお茶の名産地となったのです。

何というか「風が吹いたら桶屋が儲かる」的なおかしな発展の仕方ですが、案外歴史をたどるとこういった産業発展は多いのかもしれませんね。

 

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紅茶と緑茶、どうして色が違うの?

紅茶カップ

日本人の中には緑茶よりも紅茶の方が好きという人も多いかと思います。

まあ、その辺りは人の好みとして同じ『お茶』なのに、紅茶も緑茶もまったく色が違いますよね。はたしてなぜでしょうか?

ご存じのように、お茶を飲む習慣があるのは日本だけではなく世界各地において喫茶の風習があります。

たとえば、4千年も前からお茶を好んで飲んでいたのが中国人です。そして、そこから伝わってきて独自に日本茶に改良したのが日本人。

その一方で、ヨーロッパでは3千年前にお茶を発見したといわれています。

ちなみに、イギリス人は1800年代にインド東部のアッサム地方で見つかったアッサム茶を知ってからというもの「5時のお茶」という優雅な風習を生み出す程に紅茶が好きな国であることで有名です。

しかし、日本の緑茶は『緑』ですが、紅茶は『紅』といった名前の文字通りの色をしていますが違う葉からできているのだろう、と思われがちですが元は同じ茶の木から摘まれた葉が原料となっています。

「じゃあ、何で色が違うし成分だって似てるけど違うじゃない」

という疑問がでてくるかと思います。

それは、種類も、成分も、人体に及ぼす影響も変わってくるのは製造法の違いによるものだからです。

さて、その製造法の違いですが葉の中にある酵素を十分に発酵させるか、させないかの違いによって差が生まれてくるのです。

結論からいうと、

  • 全発酵させたのが紅茶
  • 半発酵させたのが中国茶
  • 発酵させないのが日本茶

となっています。

摘んだ葉を棚に広げてしおれさせ、ローラーにかけて汁をしぼり出してから、広げた布でまず覆います。

すると、葉の酵素が働いて発酵し、黒っぽい色に変わります。これが『紅茶』となります。

ちなみに、この黒い葉の色から西洋では紅茶のことを『ブラックティー(黒茶)』と呼んでおり、実はこれを紅茶と呼んでいるのは日本と中国だけ。

万国共通の呼び方ではなかったのですね。

なお、中国茶は発酵の度合いによって様々な種類が作られており、日本茶は美しい緑色に仕上げる為にあらかじめ最初の段階から酵素の働きを止めてつくられます。

結果、さまざまなお茶ができることになり、その酵素の状態によって同じ茶の葉からまったく違った色・成分に変わってくるのです。

 

通販で購入できる味わい深いお茶

 

まとめ

さて、お茶の雑学ということでまとめてみました。

普段何気なく飲んでいるお茶ですが、このあたりはふと疑問に思うようなこともあるでしょう。

そのまま調べないと、記憶から消えてしまう程度のことでしょうが、ひとつの知識としてもっておくと面白いかもしれません。

管理人は日本茶が好きなので、結構色んな種類を試してみますが、やはりどれも味や苦みなどが微妙に違っていて、面白いと感じることもあります。

ぜひ、いつもの茶葉を漫然と買うだけではなく多彩なお茶の葉を試して、色んなものを味わってみてください。

本記事が参考になれば幸いです。

 

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