自分が感じた素朴な疑問を調べて雑学としてブログ記事としている管理人。
今回は直接的に生活には関係ありませんが、ふとした疑問を思い浮かんだので調べてみました。
というのも『黒船が襲来したときに日本人って何語を使って話したの?』ということです。
案外何気なくそういった疑問を一度は持ったことのある人はいるのではないかと思います。それでは話をしていきましょう。
本記事が参考になれば幸いです。
黒船襲来!ペリーさんとは一体何語で話をしたの?
歴史としては、戦国時代と同じくらいに人気のある幕末。その皮切りとなったのは1853年7月8日。現在の神奈川県横須賀市の浦賀に艦隊を率いてやってきた黒船襲来。
そう、アメリカ合衆国海軍の東インド海軍長官マシュー・ペリーが鎖国。つまり、外国との接触を完全ではないにしてもほとんど断っている状態の日本にやってきた事件です。
このペリーが要約すると『開国しろ!』と日本に迫ってきたのは日本史を習ったことのある人なら誰でも知っていることかと思います。
これがなければ、近代的な文化は取り入れられず日本は世界に後れをとっていたという考え方もあれば、このせいで日本は大きな戦争をするようになり多くの人が亡くなったとも考えられます。
IFを考えればキリがありませんが、少なくてもここが大きな歴史の転換期になったのは間違いないでしょう。
さて、1853年7月8日にはるばる海を渡ってやってきたペリーさんは、その日の夕方に奉行与力の中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)と第一回の交渉をおこないます。
さぞ突然の軍艦の来訪に当時の日本人は驚いたのでしょうが、交渉をしたということは話をしたということです。ここでちょっとした疑問。
「一体何語で話をしたの!!?」
だって、考えてもみてください。相手はアメリカ合衆国の人間ということは基本言語は英語です。日本は鎖国をしていたわけですから、当然ながら英語を使えるような人はいないですし、仮にいたとしても本当にごく少数の奇特な人間だけでしょう。
その一方で、当時のアメリカ人が日本語を喋れるかというと、まあ当然ながらいませんよね。
確かに過去の歴史をさかのぼると海外に流れ着いた日本人や、奴隷として海外に売られた日本人はいるようですがたまたまアメリカの軍艦に乗っているようなことはないでしょう。
事実、日本人は英語を喋ることも理解することもできず、ペリー側も日本語を喋ることも理解することもできませんでした。
そもそも、日本と条約を結ぶつもりなのに日本語の通訳もなくよくこれたな、と思うところですが鎖国していたわけですからそういったことができる人物が希少だったということもあったのかと思います。
では、まさか身振り手振りで交渉をおこなったのか?というと、そうではありません。
確かに外人と喋るのってジェスチャーや雰囲気を理解してどのように喋っているのか想像力を働かせるんのは重要なところですが、わざわざ遠い海を渡って言葉が通じる確信もなくやってくるでしょうか?というと、実はそうではなかったのです。
確かに英語は日本人には通用しません。
が、オランダ語なら通用したわけです。
当時の日本は鎖国はしていたとはいえ、オランダとは交易がありその取引をする為にオランダ語が分かる人はいたのです。
長崎の銘菓などはオランダから入ってきたものが多いですよね。
九州西部に位置し、日本でもっとも島が多い長崎県。かつてはポルトガル貿易など、海外との貿易をする玄関口として盛んな貿易都市でした。だからこそ、伝統的な洋菓子なども多くありお土産としての銘菓も豊富にある県かと思います。そ[…]
そして、アメリカ側もそもそもオランダの交易商から話を聞いていたのか、オランダ語のわかる通訳を乗船させていたというわけです。
日本側もまた、オランダ語なら通訳がいたわけですので要するに第一回の交渉は通訳を介してオランダ語でおこなわれたというわけなのです。
ここから、日本とアメリカの関係が始まるわけなのですが仮に日本が完全に鎖国状態で通訳ができる人がいなかったとしたら、はたしてどうなっていたのでしょうね。
まとめ
さて、黒船来航時に一体何語で話をしたの?ということでまとめさせていただきました。
たぶん、中学生以上であれば知らない人はいないであろう黒船来航とペリーさんですが、開国しろという話ばかりでこういった細かいところまで話してくれる学校の先生はあまりいないのではないでしょうか。
仮に話していたら歴史マニアといってもいいのかもしれません。
しかし、ここから一気に日本の歴史が変わったわけですので鎖国をしていたとはいっても一応は細々と海外との交易があったことが幸いしたと言っていいのかと思います。言葉が通じないって結構大変ですしね。
本記事が参考になれば幸いです。