三月後半から四月にかけて満開に咲き乱れる日本の桜。
友人や家族、会社の人と毎年お花見をするという人もいるのではないでしょうか。
しかし、はたしてこのお花見という風習ですがいつ頃から始まったものなのでしょうか。
今回は、そんな花見の起源について話をしていこうと思います。
本記事が参考になれば幸いです。
桜を見る風習は平安時代から始まった
日本の花と言えば桜。そう断言する人は多いのではないでしょうか。
しばしば季語としても使われる春の象徴であり、そして散るのも早く満開の桜を見てしまうと葉桜になってしまうのがちょっと寂しい気がしますよね。
さて、この時期によく行われるのがお花見です。
もちろん、感染症などが萬栄していたら控える方がいいでしょうが、それでもこの時期はお花見をしないと気が済まないという人もいるようです。
しかし、友人や家族との花見でしたらともかく、会社となると勤務時間外の飲み会という扱いなのでプライベート時間を大事にする人は嫌がる人が多いかもしれませんね。
不思議なことに他の花が開花してもお花見なんてしようとしない人が多いのに、なぜか桜のシーズンだけはこぞって花見好きが騒ぎます。
まあ、ただ花見にカコつけてお酒を飲みたいだけなのでしょうが、それだけではなくやはり桜は日本のシンボルといえるからこそという理由もあるのでしょう。
ではそんな桜による花見ですが、元をたどるといつの時代からこのような習慣ができたのでしょうか?
日本の多くの風習は江戸時代の太平の世で生まれたものも多いのですが、これはもっと昔となり平安時代までさかのぼることができます。
『794(なくよ)うぐいす平安京』という語呂合わせの覚え方があるように、計算してみると西暦でいえば1200年以上前。かなり昔から桜は日本人に愛されていたようです。
当初は、平安貴族が歌を詠む対象として桜を鑑賞するというものでしたが、これが花見のはじまりです。
ちなみに、それまでは花見をしなかったのかというと、花を見て楽しむという風習自体はありました。
中国の詩文や唐文化の影響もあって桜ではなく梅を鑑賞するのが貴族たちの好みであったようで、『万葉集』では多彩な梅の歌が残っています。
それがどうして梅から桜に変わったのかというと、当時の貴族の好みが変わったということでしょう。『古今和歌集』の頃には梅よりも桜を詠む歌の方が多くみられるようになりました。
こうして、花見という文化は日本人の習慣として定着していったのです。
庶民の花見は占いがルーツだった!
桜は中性時代の修験道と結びついて、山岳信仰と共に全国に広がっていき、江戸時代になると武士のシンボルになります。
なぜ桜なのかというと、桜の散りは早く、その散り際の潔さと憐れな風情が武士の生き方。少なくても武士の理想となる生き方と同じことから、武士は桜を好んだのです。
さて、貴族や武士など身分の高い人達のことばかり話していますが、一般庶民はどうだったのかというと実は同じく花見をしていたというのです。
とはいえ、平安時代の庶民は優雅に歌を詠むなんてことはしません。
じゃあ、何を目的に桜を見ていたのかというと、その桜の咲く様子から今年の豊作・不作を占っていたのです。
なるほど、そう考えるとちょうど桜の開花時期は春先で種まきシーズンと重なるので、ちょうどいい時期に鮮やかに満開になるものですよね。
ですので、占いとしてのお花見が庶民の桜をみあげて何かをするというルーツになっているのです。
とはいえ、歌を詠む。占いではいまとまったくイベント性が違ってきます。
いまのスタイルとなったのは元禄時代(1688~1704年)の頃。やはり、江戸時代です。
お花見の起源とはなりませんでしたが、江戸時代は現代日本に通じるあらゆる風習が形となった時代といっても過言ではないかもしれません。
おそらく彼らも、桜を風流だのなんだのいいながらも、ただ酒飲みの口実にしていたのがきっかけなのではないでしょうか。
それでも、桜という日本の花に特別な感情をもって『花見』の対象としたのですから、今も昔も桜が日本人の生活に根付いたものの一つであることは間違いないでしょう。
まとめ
さて、花見の起源についてまとめさせていただきました。
好きな花は?と問われて桜と答える人も案外いるのではないでしょうか。
入学式や入社式、卒業式など桜のシーズンに出会いと別れがあることからも、印象的であり桜が咲き始める頃からちょうど春らしく徐々に気温も上昇していきます。
平安貴族たちが桜で一句詠んだのも見事な桜の花に見惚れたからに違いないでしょう。
本記事が参考になれば幸いです。